クリスティアン・ツィマーマン(Krystian Zimerman、1956〜、ポーランド)
ショピニストへの道〜ショパンを極めよう〜 > ショパン弾きのピアニスト > クリスティアン・ツィマーマン
呼称:鍵盤の貴公子

過去:清純で瑞々しいショパン演奏を聴かせる美青年
現在:普通のことをやりたがらない髭面の個性派

クリスティアン・ツィマーマン(ツィメルマン)は、ショパンと同じポーランド生まれで、 1975年、弱冠18歳にして第9回ショパンコンクールを制覇した、類稀な才能を持ったピアニストです。 コンクール開催国ポーランドからの優勝は、1955年のアダム・ハラシェヴィッチ以来、実に20年ぶりの快挙で、 ワルシャワの聴衆はツィマーマンというポーランドからの正真正銘のスター誕生に我を忘れるほど興奮したようです。 それに彼は顔かたちがが ショパンの面影を漂わせる貴公子タイプの美青年で、その様子は「(コンクール本選で)コンチェルト ・ホ短調を弾いたときなど、フレデリック本人が陽の光輝く音の道、希望に燃ゆる光の中を世界制服へと まっしぐらに突き進んでいくかに思われた」(「ものがたりショパンコンクール」(イェージー・ ヴァルドルフ著、足達和子訳、音楽之友社)より引用) とも記されています。ショパン同様、音楽的才能、容姿と天は二物を与えたと思えるほどで、 まさにショパンの生まれ変わりと本気で思わせてしまう要素がツィマーマンには備わっています。

ツィマーマンの優勝には一部反対派もいたようで、我が国のショパンピアノ音楽評論の権威でもあった某氏が ツィマーマンを1位に推すことに大反対したと伝えられています。 確かに現在残っている、コンクール中のものと思われるアンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズを聴くと、 ニュアンスに乏しく際立ったテクニックのみが前面に押し出された演奏で、氏の気持ちも分からなくはないですが、 いずれにしても圧倒的な演奏で、将来性が楽しみな逸材とだけは言えたことは間違いないと思います。 上述した「ものがたりショパンコンクール」では、ツィマーマンの1975年ショパンコンクールの第1次予選の演奏に関して、 「半世紀に及ぶコンクールの歴史全体を通じ、初めてグランプリ候補者が素晴らしい才能であらゆる競争相手を圧倒し、 一番初めから分かってしまうということが起きた」、(中略)「湧き上がるような、青年らしい喜びに溢れた演奏で群を抜いた。 聴く者がこの素晴らしい演奏にあら捜しをしようなどとは思いもよらなくなるほどに魂を奪ったのである」と 著者はツィマーマンを大絶賛しています。 一部、耳の悪い偏屈な方々がツィマーマンの良さを全く理解できないことを棚に上げて、2位のソ連出身の女流ピアニスト・ ディーナ・ヨッフェを1位にするべきだと主張していたようですが、結果的には、ツィマーマンは コンクール優勝、金メダルの他、ポロネーズ賞、マズルカ賞の他、主要な賞を総なめに してしまったそうです。その奇跡的な快挙を見れば、反対派が間違っていたことが証明されたと考えてよいと思います。

ショパンコンクール優勝直後は、その清潔感溢れる瑞々しい美音で 極めて筋の良い素直な演奏を聴かせてくれる優等生的なピアニスト、という印象が先行していたようです。 1978年、79年にジュリーニと録音された、ショパンのピアノ協奏曲第1番、第2番にはそうした彼の 天分がいかんなく発揮されており、豊かなポエジーとファンタジーを湛えた見事な演奏で、現在でもこの2曲の代表的 名盤として輝いていることは周知の通りです。

ツィマーマンの大芸術家への成長の足跡は、その録音から知ることができます。彼はドイツ・グラモフォンと契約を結び、 前出のショパンの2曲のコンチェルトを録音した後、カラヤン、バーンスタイン、小澤征爾、ブーレーズ といった大指揮者とのピアノ協奏曲録音の機会に恵まれています。

1981年、82年にカラヤン、ベルリンフィル と録音したシューマン・グリーグのともにイ短調のピアノ協奏曲では、カラヤンの精妙な棒捌きの下、 極めてクリアーなピアノでその独特の詩情を聴かせてくれました。とくにグリーグの方は、カラヤンの 示唆もあったのでしょうが、出だしから壮大、大柄であり、単に詩情だけで聴かせる小粒のピアニスト ではないことを証明してみせています。北欧のショパンと言われたグリーグの清潔感溢れる詩情を 極めて繊細な感覚で細やかにしなやかに歌って聴かせながらも、抜群の演奏技術 と強靭な打鍵で要所要所を引き締め、見事なバランスを産み出した稀有の名演となりました。

その後、彼は、バーンスタイン、ウィーンフィルというこれ以上ないバックを得て、1983年、84年に ブラームスの2曲のピアノ協奏曲を録音(但しライブ音源)しています。これらの作品は2曲とも、ピアノを加えた交響曲と 言われるほど、ピアノと管弦楽が見事に調和したシンフォニックな傑作です。1983年録音の第1番では、 心の中から 滲み出る悲しみに満ちた旋律を、遅めのテンポで一つずつ丁寧に紡ぎ出していくようで、聴くたびに 目頭が熱くなる感動的な演奏です。今の僕にとってこれも同曲のダントツのベストワンです。 それから1年後に録音された第2番では、よりシンフォニックなこの作品を、極めて重心の低い 打鍵で演奏しています。バーンスタインのやや粘着質な音楽作りの中で、その端正なツィマーマンの ピアノは明快な自己主張をしています。その異質な2人の個性のぶつかり合いが、これ以上ない 緊迫したドラマを産み出し、ここに圧倒的な名演が誕生しました。その圧倒的なスケール感と 完成度の高さは、世に完璧と言われるポリーニの同曲盤の比ではないように僕には聞こえます。

すでにこの辺りまでくるとツィマーマンが大芸術家として大変貌を遂げつつあることが分かってきます。 持って生まれたリリシストとしての天分に、大柄なスケール感と風格が備わってきているのです。 1987年にマエストロ・小澤征爾と録音した、リストのピアノ協奏曲第1番、第2番他の演奏は、決して 優等生的ではない真の大芸術家としての風格を感じさせるヴィルトゥオーゾ風の演奏になっています。 しかし世紀の大ピアニスト、巨匠の演奏とは異なり、その演奏は細部まで徹底的に磨きぬかれた 完璧なもので、一つの音の不揃いもない、精巧な工芸品的な完成度を持っているのです。その緻密にして 大柄な彼の演奏スタイルは現在の彼の演奏の大きな特徴となっています。

1989年には再び、ブラームスの時と同じ、バーンスタイン指揮ウィーンフィルのバックを得て、 ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集録音が計画通り、行われました。ツィマーマンは1975年ショパン コンクールに先だって、チェコのベートーヴェン・国際ピアノコンクールでも優勝しており、こういった 古典音楽にも非常に造詣が深いようです。この全集中、もっとも傑出しているのは、やはり第5番「皇帝」です。 この作品は、構成的に非常にしっかりした作品で、技術のあるピアニストなら誰が弾いてもある程度 「立派な」演奏になるため、その後のひと押しが決め手になるのですが、ツィマーマンは、 豊かなスケール感の中に瑞々しい感性を湛えながらも、凛とした引き締まった演奏を聴かせてくれます。 その若き巨匠とも呼ぶべき風格はこの作品に相応しく、まさしく「黄金の中庸」と 呼ぶに相応しい圧倒的な名演奏となりました。この傾向は第3番、第4番にも共通しており、これほど 音楽的・技術的に完成度の高い演奏は存在しないのではないかとさえ思います。これをきくと ポリーニの演奏でさえ、剛直でニュアンスに乏しいと感じてしまうのは僕だけではないと思います。 逆にアシュケナージの演奏は、ニュアンスは豊かなのですがツィマーマンのピアノのようなスケール感がなく、 小ぢんまりとしすぎているように感じます。ツィマーマンは、あらゆるピアニストの長所を全て 併せ持つ大アーティストである、と僕はこのベートーヴェンを聴いて確信 したわけです。 しかし、残念なことにこの全集録音計画進行中その完成を待たずして、バーンスタインが急逝して しまいました。ツィマーマンはこの大巨匠の遺志を受け継ぎ、残る第1番、第2番を自ら弾き振りして、 録音を完成させたのです。彼は大指揮者との録音の仕事を通して、既に指揮者としての能力も 身につけていたのです。

1994年,96年には、圧倒的な緻密な棒捌きで分解写真のような演奏を聴かせる大指揮者、ピエール・ブーレーズ とラヴェルのピアノ協奏曲ト長調、左手のためのピアノ協奏曲ニ長調を録音し、そのツィマーマンの より現代的な感覚を聴く人に伝える演奏となりました。ツィマーマンの透徹した現代感覚と造型感覚 は、おそらく本来の彼の天性の素質として既に備えもっていたもので、それが徐々に花開いてきた と考えた方がよいと思います。それゆえ、彼は現在、現代音楽に強い関心を持ち、前衛的作曲家、 ジョン・ケージの無音音楽「4分33秒」を演奏会でも取り上げるなど、個性派の名を欲しいままに している感があります。

1999年にはショパン没後150年の大企画として、ポーランド出身の音楽家で編成されたポーランド祝祭 管絃楽団を自ら指揮して、ショパンのピアノ協奏曲第1番、第2番を録音しました。彼の指揮も1つ1つの フレーズに対して思い描いている理想の音像を徹底的に楽員達に伝え、彼の中に宿るショパン音楽の魂を そのまま、聴く人に理想の形で伝えることができるようになるまで、ものすごい時間をかけて入念に徹底的に リハーサルを繰り返した跡が伺えます。普通の指揮者なら 何となく流してしまうような楽句に対しても細かく指示を与え、その表現の細部への徹底度も尋常ではありません。 演奏内容そのものよりも、よくここまでできるなあ、ということにまず感心させられてしまうでしょう。 もちろん演奏内容も非常に優れています。ショパンのピアノ協奏曲の管弦楽の面白さのみならず、ツィマーマン の弾くピアノも、非常に緻密で細部まで徹底しており、細かい一音一音にまで神経が行き届いています。 そしてそれをつなぎ合わせ、一つの大きな流れとして聞かせる卓越したバランス感覚!!これを聴いてしまうと 世に出まわっている同曲盤がどれほどいい加減でアバウトな演奏に聞こえてしまうことか。

もはや、ツィマーマンというピアニスト、この人は僕だけでなく、多くの人が「世界一のピアニスト」 と思っているのではないでしょうか。彼の才能、それはショパンコンクールに優勝できる、という レベルをはるかに凌駕するほどの偉大なものであったことが証明されつつあります。 こういった 超天才アーティストの今後に大きな期待を抱きながら、クラシック音楽を楽しめる僕たちの幸せは 他の何物にも代え難い大きな宝物であり財産というべきでしょう。


ツィマーマンの音楽観

世にショパンのスペシャリストは多いですが、ツィマーマンは、ショパンコンクール優勝直後から 「ショパン弾き」と呼ばれることに大きな抵抗を感じていたそうです。「ある特定の1人の作曲家に こだわるのは、芸術家として非常にもったいないことであり、危険でもあります」と彼は語ります。 その彼の主義は、そのまま録音の曲目に現れているのです。ショパンコンクール覇者としては、否、 超一流ピアニストとしては悲しいほどにショパンの作品の録音が少ないのはそのためです。

当時から、彼は自分の演奏に深みを増すために、演奏会の回数とレコーディングの機会を自ら厳しく 制限し、作品と向き合い掘り下げるための時間を十分に確保していたようです。 また、レコーディングのテイクを終えた後も、ある一定期間は専属のDG側に発売を許可せず、その演奏を 何度もプレイバックし、自分の耳で聴いていつどんなときでも納得のいくものであることを十分に確認する そうです。 こうした行為は、現在の商業主義,人気第1主義の風潮という時代の流れと逆行するもので、 ともすると話題性に乏しくなり、コンサートピアニストとしては「忘れられた存在」に なる危険性をはらんでいますが、CD等で聴ける彼の演奏水準の奇跡的な高さは、彼が自らに課した こうした厳しい自己鍛錬の賜物と言えます。

また彼は、様々な国の言語学に関心を持ち、数ヶ国語を同時に操る他、音響学、ピアノのメカニズムにも精通して いて、ピアノ調律の資格も持っているようで、調律の最終段階の微調整は、彼が全て自分の納得のいく ようにやっているそうです。 そのためかどうか、彼の弾くピアノの芸の細かさには思わず唸らされることがあります。ダンパーペダルを ゆっくり上げていくときに一瞬音量が増幅される瞬間がありますが、その効果も考えながら弾いている 箇所があるのには、驚きを感じます。最近、より細部へのこだわりが増し、思索的な演奏をするように なってきましたが、彼が今世紀、大芸術家としてどのような活動をしていくか、目が離せません。

※Krystian Zimermanの邦語表記については、Krystianはクリスティアン、クリスチャン、 Zimermanはツィマーマン、ツィメルマン、ジメルマンなど複数の表記があり、 2016年現在、クリスチャン・ツィメルマンと表記されることが多いです。 僕自身はこの人をドイツ・グラモフォン盤でこの人の演奏を初めて聴き、レコードでは「クリスティアン・ツィマーマン」と 表記されていたことから、この呼び方が最もなじみがあります。 そのような訳で、当サイトでは「クリスティアン・ツィマーマン」で統一しています。


ツィマーマン・ディスコグラフィ(所有CD)

上記のように、ツィマーマンは安易な録音、演奏会を行うことを自ら厳しく制限しており、結果として名声の割に録音が極端に 少ないのですが、逆に言えば、それだけ今現在流通している彼の正規の録音を収めたCDは、一枚一枚、「自分の真価を世に問う」という 覚悟と決意を持って、送り出されたものということになります。そのため、ツィマーマンの演奏は、そのどれもが異常なほどの 高水準に達している名演奏となっています。

ショパン・ピアノ協奏曲第1番・第2番(ジュリーニ指揮、ロサンゼルスpo., 1978,79年録音)

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当サイトのCD聴き比べでも、ピアノ協奏曲第1番・第2番の管理人一押しの推薦盤として紹介しているもので、 ツィマーマンの事実上のデビュー盤です。1975年第9回ショパンコンクール優勝から3年後の録音で、録音当時ツィマーマンは 21歳(第2番は22歳)という若さでした。ショパンが両曲を作曲した時の年齢に近いためなのか、若武者ツィマーマンの 若々しくフレッシュな感性、清潔なリリシズムが作品の魅力を自然に引き出していて、その瑞々しい美音と相まって、 惚れ惚れするような清らかで美しい演奏に仕上がっています。リリカルな魅力にかけては、これ以上の演奏は未だに聴いたことが ないです。しかも、ツィマーマンは、そういった「詩情」に溺れることなく、きちんと自分の奏でる音楽を、距離を置いて客観的に 見つめることができる知的な聡明さとバランス感覚を併せ持っていることも大きな魅力です。 技術的な完成度も非常に高く、演奏効果が必要な難所では、必要十分な華やかさと強靭さがあり、凛とした厳しさを感じさせるのも この演奏の大きな魅力だと思います。1999年には、自ら楽団を編成して「弾き振り」で再録音をして、その演奏も大変素晴らしいもの ですが、若きツィマーマンならではの魅力がたまらないこの演奏こそ、これらの若きショパンの記念碑的作品に相応しいものと 確信しています。なお、第1番と第2番の録音の間には1年間の開きがあり、後に録音された第2番の方が、より柔軟で表現に幅と深みが 増しているように感じます。バックのジュリーニ・ロサンゼルスフィルも、深く重厚な響きでツィマーマンの素晴らしい演奏を サポートしています。

ショパン・ピアノ協奏曲第1番(コンドラシン指揮、アムステルダムco., 1979年録音)他

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1979年録音のピアノ協奏曲第1番(但し前出の録音とは音源が違う)、アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ、 華麗なる大円舞曲の3曲が収録された輸入盤です(現在、国内盤では手に入らないようです)。 ピアノ協奏曲第1番は、ジュリーニ/LAPOと録音した翌年、コンドラシン指揮ACOとの共演によるライヴレコーディングです。 録音データを見ると1979/11/3となっていて、おそらく編集等は一切行われていないのでは?と考えられます。 基本的には、ジュリーニ指揮の前録音の演奏スタイルを踏襲していますが、同じライヴ録音でも、こちらの演奏の方が、 演奏の一回性、ライヴならではの「乗り」が強く、この作品特有の若々しい青春の息吹、瑞々しい抒情性といったものが ツィマーマン自身の自発的な音楽性によって感興豊かに流れ出てくるという印象が強い演奏です。また、第3楽章などでは、 急速なテンポで弾き飛ばしていきますが(とくに後半に向かって次第に盛り上げていくような感じ)、ツィマーマンらしく 技術的な破綻は全くなく、コントロールは細部まで行き渡っており、テンポを上げようと思えば、まだまだ上げられそうな 余裕があります。一体この人は、どれほどの技術を持っているのか、と耳を疑うような演奏です。 次のアンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズは、録音データを見ると、1975年10月/ワルシャワとなっており、 おそらく彼が優勝したショパンコンクールの第2次予選のライヴ録音と思われます(曲の最後には、フライング拍手が なり始めることも「状況証拠」の1つですね)。音の臨場感、色彩感がなく、響きが ものすごくデッドなのにまず驚きます。ツィマーマンらしくない硬くつまったような音色でニュアンスに乏しく、フォルティッシモ では音が割れてしまうようで非常に鋭くアグレッシブな演奏だと思いました。一瞬聴き始めたときは、誰か別の人が弾いているのかな? と思ってしまうほど、彼らしくない演奏。きっと、ショパンコンクールという異常な状況のため、彼も緊張していて本来の実力が 出し切れなかったのでしょうね。これを聴くと、野村光一氏がツィマーマンが優勝したことに大いに憤慨したのが分かる ような気がします。最後の「華麗なる大円舞曲」は、1978年4月録音で、おそらくツィマーマンの伝説の「ワルツ集」からの抜粋と 考えられます(彼のワルツ集は、CD化されれば、絶対に売れると思いますが…)。こちらの演奏は、ツィマーマンらしい 繊細なタッチと瑞々しい美音で、1つ1つの音を丁寧に扱った、実に美しく完成度の高い佳演となっています。これだけ聴くと、 やはり他の13曲も聴きたくなってしまい、何とも歯痒い思いです。

シューマン・グリーグ・ピアノ協奏曲(カラヤン指揮、ベルリンフィル、1981,82年録音)

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カラヤン指揮ベルリンフィルのバック、ということでツィマーマンの演奏史を語る際には常に引き合いに出される演奏です。 カラヤンは、ソリストでさえ自分の意のままにドライブしたがる性格だったと言われますが、ツィマーマンのリリシストとしての天分と クリアで澄んだソノリティが作品の魅力にマッチして、本来の彼の魅力が最大限発揮されているようです。特にその傾向はグリーグの 方で顕著に現れており、北欧の大自然を彷彿とさせる寒々とした清潔な詩情が、ツィマーマン独特の繊細なタッチによって、極めて 美しく紡ぎだされていくようで、思わず聴き惚れてしまいます。さらに難所の演奏効果、華やかさも十分にして、コントロールを失うことなく、 極めて完成度が高い演奏に仕上がっています。グリーグに関しては、本当に申し分ない演奏と感じました。しかし…シューマンの方は、 非常にデリケートな感性でひたすら美しく演奏してはいるものの、ややスケールが小さく、おとなしい演奏になっており、 ツィマーマンの魅力が十分に発揮されていないような気がします。いずれにしても、グリーグの方は、絶対的と言ってよいほどの 名演奏だと思いました。

ブラームス・ピアノ協奏曲第1番(バーンスタイン指揮、ウィーンフィル、1983年録音)

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バーンスタイン指揮ウィーンフィルのブラームス・チクルスの共演者としてツィマーマンが抜擢され、この恵まれた機会を生かして、 己の芸術により一層磨きをかけようとするツィマーマンの意気込みが感じられる演奏です。晩年のバーンスタインは、例によって 遅めのテンポで非常に粘着質の音楽を聴かせますが、ツィマーマンはそのテンポの遅さを十分に生かして、1つ1つの音を大切にしながら ブラームスのこの作品特有の孤独なモノローグを切々と語っていくような悲しげな演奏がことさら印象深いです。また、第1楽章展開部や 第3楽章などでは、「ピアノを加えた交響曲」と言われるように、管弦楽とピアノの凄まじい駆け合いから生み出される緊迫感と高揚感が 素晴らしく、明確で強靭な打鍵によって自分の立場を主張する姿勢は、老巨匠バーンスタインにも全く引けを取っていない ようです。しかもこの完成度の高い演奏がライブ録音というのもすごいですね。

ブラームス・ピアノ協奏曲第2番(バーンスタイン指揮、ウィーンフィル、1984年録音)

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第1番のときと同じバーンスタイン指揮ウィーンフィルのバックにより、その翌年に演奏された演奏会のライブ録音です。 この作品は、第1番と比べると技術的にさらに難しく書かれており、バックの管弦楽に負けない重厚な打鍵と、音色の芯の太さが 求められますが、ツィマーマンのタッチは極めて重心が低く、ピアノから極めてシンフォニックな大音響(しかも美しい!)を 出しています。バックのバーンスタイン指揮ウィーンフィルの強奏に少しも引けを取らず、対等の立場で堂々と渡り合い、 互いの立場を主張しあうことによって、この2人の異質の個性が真正面からぶつかり合い、白熱、緊迫したドラマを生み出し、 その結果、圧倒的な名演奏となっています(異論はあるかもしれませんが…)。 このブラームスのピアノ協奏曲によって、従来の彼のやや優等生的だった演奏スタイルから一皮むけて、よりスケールの大きなピアニスト、 若き巨匠へと脱皮、成長しつつあることを如実に感じさせる演奏となっています。この演奏を「新譜」としてタイムリーに 聴くことができた方の多くは、きっとツィマーマンに「21世紀の大巨匠」の姿を見出し予感したことと思います。その「予感」は 今や現実のものとなりつつあることを考えると、このブラームスは、彼の演奏スタイルの方向付けを与える、極めてエポック メーキング的な録音となっていた、とも言えるでしょうね。って、言いすぎかな…。

リスト・ピアノ協奏曲第1番・第2番他(小澤征爾指揮、ボストン響、1987年録音)

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今度は、マエストロ・小澤征爾指揮ボストン響との共演盤として注目されたリストの2曲のピアノ協奏曲です。 前出の2曲のブラームスのピアノ協奏曲によって、ツィマーマンが「一皮むけて」大きく脱皮したのを感じさせてくれましたが、 このリストは、その延長線上にある演奏となっています。ツィマーマンの軌跡の章でも紹介したように、ここでのツィマーマンは、 彼本来の持ち味である繊細な抒情表現と緻密な演奏技巧による丁寧な音楽作りに加えて、大演奏家・若き巨匠としての堂々たる 風格と、スケールの大きさ、大柄さが加わっているのが大きな変化だと思います。特に第1番第1楽章の出だしの重厚感、壮大さは、 ブラームスのピアノ協奏曲を演奏する以前のツィマーマンには認められなかったもので、ここに来てようやく、彼の演奏の スケールの大きさが見せかけのものではなく、いわば演奏本能として体の中に宿った、と確信をもって言えるようになった のだと思います。緻密さと大柄さという、一見すると相反する要素を同時に併せ持つことに成功し、それらの特質を活かした ヴィルトゥオーゾ風の演奏は、いかにもリストの超絶技巧的な作品に相応しく、彼本来の繊細さと豊かな詩情も同時に味わうことが できる、何とも贅沢で素晴らしい演奏です。細かいパッセージでもきれいに粒が揃い、聴くほどに惚れ惚れするリストですね。

ショパン・バラード全曲・舟歌・幻想曲(1987年録音)

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当サイトのCD聴き比べの「バラード」のコーナーでも、一押しの決定盤として紹介している演奏です。 ツィマーマンは、ショパンコンクール優勝直後から「ショパン弾き」と呼ばれることをことのほか嫌がっていたようで、それは これまでの録音史からもおおよそ察しがつくと思います。このCDは、そんな「偏屈ツィマーマン?」の待望のショパン録音 (ピアノ協奏曲以来、実に8年ぶり!)です。「ショパンはまだか!」と待ちくたびれたツィマーマンファンの方も多かったの ではないでしょうか?ところで、このバラード全曲・舟歌・幻想曲の演奏内容は…そんなファンの期待を裏切らない、いや、 期待をはるかに超えていたのではないかと思います。素晴らしい演奏に脱帽し、真っ青になった方々も多かったのではないかと思います。 1曲1曲、一音一音休符に至るまで深く掘り下げて緻密この上ない設計図を丁寧に描いて、その設計図に従って寸分の狂いもなく 音楽を再現していくような演奏…と言ってしまうと「もしかして無機質なんじゃないの?」と思われそうですね。確かに肌触り そのものは冷たいですが、繊細この上ないタッチによって、無限とも思える音色のパレット上のあらゆる音を、ものの見事に 弾き分けていて、唖然とさせられます。もちろん、劇的な性格、ドラマ性も不足はなく、極めて表現の振幅の大きな、しかも 極上の完成度を誇る演奏に仕上がっています。

ベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集(バーンスタイン指揮、ウィーンフィル、1989年録音)

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ツィマーマンの実績と言えば、誰に聞いても「ショパンコンクール優勝」という答えしか返ってこないような気がしますが、 実はその2年前、1973年のチェコのベートーヴェン国際音楽コンクールでも第1位を受賞しているようです。このことは、 ツィマーマンとベートーヴェンの相性も一般的に高く評価されていたことを示していると思います。 ところで、このベートーヴェン・ピアノ協奏曲3番〜5番では、ブラームスのときと同じ、バーンスタイン指揮ウィーンフィルをバックに 演奏しています。管弦楽のバックはややアバウトな気がしますが、ツィマーマンの演奏は、普遍性、客観性を重視しながらも (これはベートーヴェンの作品を演奏する際には是非とも必要な姿勢ですね)、 彼本来の音色の美しさや繊細でリリカルな魅力を自然に表出しており、何とも惚れ惚れするような美しいベートーヴェンに仕上がって います。しかしロマン派的な表現は控えめにし、節度を保ちながら上品に演奏していることが、より一層清清しさを醸し出す要因に なっているのではないか、と思えてきます。既出の表現ですが、まさしく「黄金の中庸」!取り立てて変わったこと、奇をてらった ことをやっているわけではないのに、ツィマーマンが演奏すると美しい!こういうものを本物の天才の芸術と呼ぶのでしょうね。 なお、残る第1番と第2番は、残念なことに録音前にバーンスタインが急逝したことにより、生前の打ち合わせの内容を生かしながら、 ツィマーマン自身が指揮を行い、ピアノ演奏をしています(いわゆる「弾き振り」)。こちらは、管弦楽のスケールがやや小さく、 管弦楽とピアノが室内楽的に調和した典雅な趣の演奏となっています(少し物足りないかも…でもそういう傾向の曲だから仕方ないかも…)。

リスト・ピアノソナタロ短調、詩的で宗教的な調べ〜「葬送曲」他(1990年録音)

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超難曲、リストのピアノソナタロ短調、腕達者な多くのピアニストが腕を競って録音する中、あえてこの熾烈な競争の中に飛び入る には相当の覚悟が必要だと思うのですが、当時成長著しいツィマーマンには怖いものがなかったのでは?と思わせるものが ありますね。成長の勢いが違っていましたし…。このピアノソナタ、序奏が遅いテンポでただならぬ雰囲気を醸し出していますが、 次からの難しいパッセージが、ものすごい切れ味のテクニックで弾き始められるや、もう全身金縛りにあって身動きできなくなるほどに 惹きつけられてしまいます。鋭い音色、超キレキレのテクニックで、難しいパッセージがいともたやすく「料理」されていくようで、 世紀のヴィルトゥオーゾも真っ青の、凄まじい切れ味の演奏が展開されていきます。部分によっては「アクロバティック」とも 言えるほど超絶技巧を前面に出している箇所もありますが、知的な聡明さとバランス感覚に優れたツィマーマンのことだから、 きっと作品を掘り下げた結果、そうする必要があると結論付けたからこそ、と言えそうです。腕が鳴って仕方ない、指が 廻りすぎて仕方ないからと言って、安易に弾き飛ばすようなことは決してなく、だからこそ破綻した箇所は一箇所もないのでしょうね。 そして緩徐部では、しっとりとした美しい音で詩情豊かに切々と歌い上げる…「名曲に名演奏あり」とはよく言いますが、 リストの名曲、ピアノソナタロ短調の名演奏がまた1つここに誕生という印象です。ちなみに、僕は他に、ポリーニ、アルゲリッチ、 ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ボレットの演奏を聴いたことがありますが、それぞれに素晴らしいものの、感覚的には、 このツィマーマンの演奏が一番しっくり来ます。

シューベルト・即興曲D.899,D935(1990年録音)

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演奏不可能な作品がこの世に存在しないとも思えるツィマーマンが、技術的に決して難しくないシューベルトの即興曲? 作品に対する深い洞察と掘り下げによって緻密な演奏をするツィマーマンが、徒然なるままに音を綴った「即興曲」? と考えると、ミスマッチ?選曲ミス?と思われた方も、もしかしたらいるかもしれませんね(もちろん冗談ですよ)。 でも!これは本当に素晴らしい演奏なんですよ。シューベルトの即興曲は、湧き出る泉のごとく次から次へと旋律が生まれ、 決して完結することなく流れて去って、去っては流れる、という取り止めのなさが、またたまらない魅力なのですが、 ツィマーマンは、シューベルトの即興曲の歌謡性を生かしながらも、純粋なピアノ曲として、ピアノのソノリティの 美しさを音楽表現の出発点にしています。硬質で冷たい肌触りを持った研ぎ澄まされたピアノの音色は、凄まじいばかりの 光彩を放ち、繊細なタッチと鋭敏な感性による微妙なニュアンスの表出とあいまって、呆れるほどに美しい独自の シューベルトの世界を作り上げています。精巧な工芸品的な完成度を誇るツィマーマンの極上の演奏の1つと言えるでしょうね。 これを聴くと、シューベルトが何故、これらの即興曲を作る際、歌曲としてではなく、ピアノという楽器にこれらのメロディー を託したのか、その意図がはっきりと聴き取れるようです。シューベルトの即興曲の歌謡的性格を、ピアノという楽器の独特の 表現力を手段として用いることによって引き出すことができるツィマーマンの才能に改めて瞠目することになると思います。

ドビュッシー・前奏曲集第1巻・第2巻

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ラヴェル・ピアノ協奏曲ト長調、左手のためのピアノ協奏曲ニ長調他(ブーレーズ指揮クリーヴランド管、1994,96年録音)

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ラヴェルの音楽は、しばしば「心よりも頭脳から生まれた無機的で冷たい音楽」という表現がなされますが、こういった作品には、 冷静で分析的、頭脳的な棒捌きをする現代音楽の大御所ブーレーズと、同じく知的かつ聡明で曖昧さの残さない演奏が売りの ツィマーマンのコンビが、まさに「適任」と言えるのではないか、と思います。演奏も、ピアノ協奏曲ト長調では、非常に明晰で 緻密な管弦楽伴奏に乗って、ツィマーマンの洗練された軽妙なタッチから生まれる洒脱な表現が何とも粋で素晴らしく、 非常にメリハリとパンチが効いた演奏になっているのは、特筆に価すると思います。また第2楽章などで聴かれる高音の ゆっくりしたパッセージでは、音の一粒一粒が七色の光を持ってキラキラと輝いており、その刻一刻と無限に変化する音繰りの 妙技が堪能できます。管弦楽の静かな伴奏に乗って静かで秘めた雰囲気を持って語られるピアノの、何という美しさ! 頭脳派作曲家の作品の頭脳派演奏家による演奏だけに、「無機的」という先入観を持ってしまう方もいるかもしれませんが、 決してそんなことはないです!音の自然な流れというのは、論理的に組み立てるべきなのだ、ということをこの演奏は示している ようです。「左手のためのピアノ協奏曲」の方も、多彩な音色を操れる彼ならではの演奏で、そのため「左手だけで弾いている ようには思えない」という、この曲に対する陳腐な感想を、また別の意味をもって聴く人に想起させてくれることになると思います。

ショパン・ピアノ協奏曲第1番・第2番(弾き振り、ポーランド祝祭管、1999年録音)

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バラード集以来12年間、再びショパンからは一定の距離を保っていましたが、ようやく満を持してショパンのピアノ協奏曲の再録音に 踏み切ったのが、このCDです。ショパン没後150年のいわゆる「ショパンイヤー」のイベントとして企画された録音(録音だけでなく、 演奏会の大規模なツアーも予定通り行われたようです)で、実際、 ツィマーマンのピアノソロのバックを務める「ポーランド祝祭管弦楽団」は、この企画のためにツィマーマン自らが組織、編成した ものだそうです。演奏内容は…まず第1番のオーケストラの序奏から、そのあまりの型破りの演奏に圧倒されること請け合いです。 普通、ショパンのピアノ協奏曲の場合、管弦楽の扱いが未熟なせいもあり、指揮者、楽団員に軽く扱われることが多いのですが、 この演奏は、一音たりとも軽視することなく、一音一音、ショパンの音楽に対して最大限の敬意を払いつつ、非常に細かな起伏を 付けながらそこに込められたショパンの「真実の声」を再現していこうというひたむきな姿勢が感じられ、まずその尋常ではない 細部へのこだわりと徹底度に度肝を抜かれてしまいます。普通、管弦楽演奏というのは、楽員1人1人の音楽性の平均的 結果として生まれるという側面(「傾向」と言った方がいいか)が少なからずあるのでしょうが、この演奏の場合は、それとは 全く違い、全ての音がツィマーマンのショパン音楽への深い敬意と強い意志の現れであり、楽員たちはツィマーマンの音楽表現の ために100%奉仕しているように感じます。ショパンの一聴すると未熟な管弦楽法にはこれほどの表現力が隠されていたのか、 とひたすら驚いた方も多かったのではないかと思います。一体これだけの演奏に仕上げるのに、どれだけの時間、労力、資金が 必要だったのでしょうね。ところで、ツィマーマンのピアノ演奏もまたそのような管弦楽の指揮にも負けず劣らず素晴らしいものです。 旧盤(ジュリーニ指揮ロサンゼルスフィルとの演奏)に比べると若々しくフレッシュな感覚は、若干後退し、その代わり表現の旨みや コクといったものが加わって、音楽的にも醸成されてきたように思えますし、演奏効果が必要な難所では、その恐るべき演奏技巧が 一段と冴えて、全ての音が鋭い光沢を持って完璧に鳴り響きます。エアチェックなども含めるとこれまでにショパンのピアノ協奏曲は 数十種類と聴いてきましたが、技術的な完成度も、これ以上の演奏に出会ったことは今までありません。 本当に上手い演奏というのは、こういうものを言うのでしょうね。 これを聴いてしまうと、本当に他の同曲異演盤の演奏がアバウトに聴こえてしまうから恐ろしいものです。 ショパン没後150年の大企画として、僕たちに最大級の「贈り物」を残してくれたツィマーマンに感謝したいと思います。

ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第1番・第2番(小澤征爾指揮、ボストン響、1997年、2000年録音)

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前出のショパンのピアノ協奏曲2曲の弾き振り盤でツィマーマンの圧倒的な存在感と芸の細かさ、深さを僕たちに強烈に印象付けた あのときから4年の歳月を経て、今度はラフマニノフのピアノ協奏曲第1番、第2番という名曲の待望の録音がリリースされました。 バックを務めるのは、リストのピアノ協奏曲録音などで既に互いの芸の内を知り尽くしている小澤征爾指揮ボストン交響楽団。 ツィマーマンは従来の優等生的な演奏スタイルから徐々にスケールの大きい巨匠風の大ピアニストへと大変貌を遂げつつあることは 前述した通りですが、このラフマニノフでは、ツィマーマンはまさに全身全霊を捧げ、体当たり的とも言うべき白熱、迫真の名演奏を 聴かせてくれます。 第1番は、基本的にラフマニノフ自身の自作自演に共感する部分が多く、多くの部分 について作曲家自身の演奏スタイルを踏襲しているようです。その一直線に切り込む鋭さと圧倒的な迫力で猪突猛進の驀進ぶりが ものすごく熱い演奏、これぞロマン派!と言いたくなるような凄まじいテンペラメントに満ちた演奏です。しかし、技術的にはもちろん、 一点の曖昧さも残さず完全無欠で、全体から見たバランスは素晴らしく、ややマイナーな第1番演奏の決定盤にやっと巡り合えた、と 胸を躍らせた方も多かったのではないかと思います。 一方、第2番は、言うまでもなく、多くの人に愛されているメジャーな「名曲」、「有名曲」ですが、あまりにも感情を抑制しすぎたラフマニノフの自作自演に大いに疑問を持っている ようで、感情の起伏を大きくとって極めてスケールの大きい大柄な表現になっているのが大きな特徴です。 管弦楽の強奏を押しのけて地響きを立てるがごとく鳴り響く低音の凄まじい迫力はピアノという楽器の表現力をはるかに超えている ようにも感じられますし、軽快な速いパッセージは完璧に粒が揃い、普通なら管弦楽の伴奏にかき消されてしまうことの多い 一つ一つの全ての音がただならぬ存在感を持って聴く人の耳に 迫ってきます。この曲を弾いたことがない方は、この曲のピアノパートにはこんな音もあったのか、と再発見し、驚く人も 多いのではないかと思います。このような外面的な華やかさは大変に素晴らしく、協奏曲の醍醐味を堪能できること請け合いです。 内面的な魅力も大変に素晴らしく、コクのあるしっとりとした美しい高音で奏でられるロシアの哀愁に満ちた旋律は 触れようとすると壊れてしまいそうなほどデリカシーに満ちていて、聴いているだけで不覚にも目頭が熱くなってくるほど、 聴く人の感情を揺さぶる不可思議な魔力があります。聴いている間、ピアノからこれほどの桁違いの表現力を引き出せるものか、 と耳を疑う瞬間の連続で、2曲ともこれ以上のものを求めるのが不可能とさえ言ってよいのではないかと思います。 尚、ここでの主役は完全にツィマーマンであり、バックの管弦楽はそのサポートという域に留まっているように聴こえますが (事実、録音はピアノが前に出て管弦楽が引っ込みすぎのように感じます)、ツィマーマンのピアノ演奏の魅力に酔いたい方 には、無条件にお薦めできるCDです(しかも、この録音の企画は、1976年にツィマーマンがDGと契約するときから既に決まっていた ということです。長期的な企画だったわけですね)。

ブラームス・ピアノ協奏曲第1番ニ短調Op.15(サイモン・ラトル指揮、ベルリンフィル, 2003年録音)

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ツィマーマンはこのCDのライナーノーツに記載されているように、それまで弾いた作品の中でコンサートで演奏するのは1割、録音するのはさらにその1割、 というほどの徹底した超完璧主義者で、1つの作品を自分のものにするのに10年かけるという極めて研究熱心なタイプのピアニストです。 「録音は一瞬を記録する」というと「何を当たり前のことを」といぶかる方もいるかもしれませんが、 この言葉がツィマーマンによって発せられると、一瞬にして重みのある言葉に変わります。録音は一瞬を記録し、 そしてその一瞬が世界の何十万という人に繰り返し繰り返し聴かれる、という特殊性を考えると慎重にならざるを得ないというものです。 ツィマーマンの録音が彼の人気や名声の割に悲しいほど少なく、実際ツィマーマンがこれまで一度でも録音したことがある曲自体が非常に少ないのは周知の事実です。 ツィマーマンがたった1回でも録音対象として選んだ作品は非常に少なく、その作品にとって非常に幸運と言わなければならないこの状況の中、 ツィマーマンはこのブラームスのピアノ協奏曲第1番を過去に録音しているにもかかわらず再録音に踏み切ったのだから、これは極めて異例のことです。 ツィマーマンの複数の録音はショパンのピアノ協奏曲第1番などがありますが、これはライブ録音も含まれていて、 ツィマーマンの意図したものではないのですが、このブラームスのピアノ協奏曲第1番はツィマーマンの意図による再録音です。 この録音からさかのぼることちょうど20年前、バーンスタイン指揮ウィーンフィルというこれ以上望めないほどの最高のバックを得て、 ツィマーマンはブラームスのピアノ協奏曲第1番の迫真の名演奏を聴かせてくれました。この作品は当初、ピアノソナタとして着想されて、 後に交響曲として書き換える試みがなされたものの、ベートーヴェンの9つの交響曲を意識してなかなか交響曲の一般公開に踏み切れず、 最終的にピアノ協奏曲の第1楽章として実を結ぶに至ったという経緯があります。 この作品が「ピアノを加えた交響曲」とも言われるような作品となったのは、ブラームスの重厚な作風、オーケストレーションに加えて、 このような創作の経緯が大きく関わっているとも言えます。 ツィマーマンの1983年の録音を聴くと、バーンスタインの遅めのテンポ設定の影響もあり、ブラームスの複雑な書法をまるでスローモーション画像、 あるいは分解写真でも見るかのように、丹念に解きほぐしていくような緻密極まりない演奏で、それでいて強奏でも重心の低い和音を作り出していて、 どこをとっても全く隙のない完璧な仕上がりの見事な名演奏だと思えました。しかしツィマーマンがこの作品を再録音するからには、この第1回目の録音に不満があったことは 容易に想像できます。ツィマーマンがレコード会社からの要請のみで安易に再録音を承諾することは考えにくく、 再録音に踏み切るにはツィマーマン自らの積極的な意志が大きく働いていると考えるべきです。 実は1983年の録音は当初予定していた楽器ではなかったとのことです。楽器を運ぶトラックが事故に遭い、急遽他のピアノを使用することになったとのことです。 現在のツィマーマンであれば、そのような状況での録音をリリースすることは絶対に許可しないと思うのですが、 あの完璧な演奏がこのような経緯でピアノを変更して行われたことに驚嘆の念を禁じ得ません。 そしてそれがツィマーマンにとって再録音のきっかけにもなったのだから、僕たちにとっては2度おいしいということになります。 今度のバックはラトル指揮ベルリンフィルという、今度もまたこれ以上望めないほどのバックです。 しかも今度は緻密な棒さばきのラトルと輝かしい響きのベルリンフィルで、芸風はツィマーマンに近いものがあります。 最初この演奏を聴いた時は

更新履歴
2002/10/** 初稿
2005/07/01 所有CD評追加
2005/11/12 ラフマニノフ・ピアノ協奏曲CDレビューを一部修正

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