ピアノ練習方法・上達法〜書籍紹介:「ピアニストという蛮族がいる」:中村紘子著〜
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〜書籍紹介:「ピアニストという蛮族がいる」:中村紘子著〜

書籍紹介:「ピアニストという蛮族がいる」:中村紘子著

今回はピアノ上達法とは直接関係ありませんが、書籍を紹介します。
「ピアニストという蛮族がいる」という中村紘子さんの著書です。
古今東西の天才ピアニストの中から特に特徴の際立った奇行・頓珍漢を寄せ集めた軽妙なエッセイです。

舞台の上で眩しいスポットライトを浴びて、華麗な指さばきで難曲を披露し、僕たちを楽しませ、 時には泣かせてくれる超天才ピアニストたち。彼らは一体どのような人間なのか。普段何を思い、何を考え日常を生きているのか? 古今東西の天才ピアニストたちの、傍から見るとどこかおかしく笑い転げてしまう、 しかし本人たちにとっては必死で大真面目な言動の数々、 それを中村紘子氏が自らの体験と見聞とをもとに風刺と機知に富んだ絶妙の筆致で面白おかしく解説してくれます。

いわばこれはピアニストという一風変わった種族(=蛮族)を、同じ種族である中村紘子氏が 我々(と言っても僕は含まれないようですが)一般庶民に対して見事に「橋渡し」してくれる貴重な書物です。 実はかく言う僕は残念ながらピアノにおいては天才ではありませんが、その良し悪しは別として、 人種としては明らかに一般庶民ではなく、この「蛮族」に属するとこの書物を読んで思い至りました。 それは僕がある時期からピアノに没頭しピアノ一筋の少年時代を送り、 ピアノ中心の価値観が出来上がったことと大いに関係があるようです。

ホロヴィッツは「ピアニストには三種類しかいない。ユダヤ人とホモと下手糞だけだ」と言い放ったそうですが、 おそらくそれは同性愛者であるが故のコンプレックスの裏返しの発言だったのではないかと思います。 元々大変に神経質で人間嫌いで癇癪持ちだったようですが、 ダメ出しの嵐で「トスカノーノ」とあだ名された大指揮者トスカニーニの、これまた男勝りの娘ワンダと結婚した後、 精神を病んでしまい失意とともに途中リタイヤしてしまい、その後はカムバックとリタイヤを繰り返しました。 一方、40歳過ぎまでプレイボーイをしていたルービンシュタイン(アルトゥール)を魅了し真面目なピアニストに変貌させたのは アニエラ・ムリナルスカとの結婚で、同じ「結婚」という行為が両者の幸不幸・明暗を分けた対照的な事例として紹介されています。 マルファン症候群とされる身体的特徴を持つ「6フィート半のしかめっ面」・ラフマニノフの驚嘆すべき右手の大きさと柔軟さ。 そして古今東西のピアノ協奏曲の中の最高峰で最も音の数が多い曲とされるピアノ協奏曲第3番(ニ短調Op.30)の音の数は 何と28,736個だとか(オタマジャクシの数を本当に数えてしまうところがすごい!)。 稀代のキャンセル魔・ミケランジェリがひたすらキャンセルを続けた大真面目な本当の理由。 タスマニア島の大自然で幼少期を過ごした生まれながらのピアノの天才アイリーン・ジョイス、 ポーランドの初代首相であり大ピアニストであった稀代のカリスマ・パトリオット(愛国主義者)パデレフスキ、 20世紀前半の類まれなショパン弾き・パッハマンのピアノ演奏中及び日常の奇行の数々・・・。 傍から見ているとどこかおかしく、しかし本人たちは真面目そのものの日常の言動の数々、 そんなどこかズレた天才ピアニストの奇行の数々が軽妙かつユーモラスな筆致で生き生きと描かれており、 笑いをこらえるのに必死な部分もあります(これを通勤電車なんかで読んだりしたらどうなるだろう?)。

しかしその一方で僕たちが純粋に涙する秘話も紹介されています。 明治時代の日本で西洋音楽黎明期のパイオニア的存在となった悲運の人・久野久、幸田延の2人の女性の話です。 音楽の本場・ドイツ、オーストリアで発祥したクラシック音楽は教会音楽に端を発して過去数百年、脈々と受け継がれ、 バロック音楽を経て古典派、ロマン派と花を咲かせてきた長き伝統があるのに対して、 江戸時代鎖国政策を続けてきた日本では西洋音楽とは全く無縁でしたが、 開国に伴い西洋文明が次々に日本になだれ込むに伴い、日本人に耳慣れない西洋クラシック音楽と初めて接する機会が出てきました。 当時はまだ蓄音機もなく西洋のピアニストの演奏を聴く機会もなく、ピアノという楽器の本当の演奏法を指導する指導者も存在せず、 いわば暗中模索、手さぐりでピアノに向かう、そんな黎明期の日本において第一人者とされた女流ピアニストの久野久。 ベートーヴェンに心酔し、鍵盤をぶっ叩く熱血タイプの演奏で演奏中に指の皮膚が裂け鍵盤が血液で真っ赤に染まることもあったそうで、 これを読む限り、久野久のピアノ演奏が相当に「自己流」であったことが推測できます。 現在でこそ、ピアノ教育現場では自己流の弊害の大きさはいわば常識と化していますが、 当時の日本ではピアノの弾き方に正しい、間違いという絶対的な尺度があることなど分かるはずがないというものです。 久野久は日本一のピアニストとして世界進出を夢見て、本場ヨーロッパに遠征することになりますが、 そこで耳にしたのは信じ難い繊細さでピアノの音色を自在に操るピアニストの精妙な演奏でした。 右のダンパーペダルを踏みながらの消え入るような繊細なピアニッシモに驚嘆したとか。 久野久にとっては右のダンパーペダルは強い音を出す目的で踏むとしか考えていなかったそうで、相当にショックを受けたとか。 自分の演奏がいかに粗雑で的外れだったかを痛感し、当時の一流ピアニストのレッスンを申し込むが、 得意だった「月光ソナタ」でさえ、あと4年間、みっちり練習すればやっと舞台での演奏が可能となるかもしれないとのことで、 その将来を悲観し投身自殺したそうです。 日本一のピアニストとして近代国家日本のプライドと使命は彼女にとってあまりにも重すぎたようです。 僕などはすっかり西洋クラシック音楽を理解していると思い込んでいて、 自らのピアノ演奏の良し悪しはともかく、良い演奏を聴き分ける耳と感覚には絶対の自信を持っているつもりでしたが、 我が国においてクラシック音楽の歴史は高々百数十年に過ぎず、 本場ヨーロッパにおけるクラシック音楽の歴史の数分の一の期間に過ぎないという事実を再認識して愕然としてしまいます。 明治初期、西洋に追いつき追い越せと文明開化を叫び、西洋の科学技術、文明を貪欲に吸収してきた近代国家日本。 元々日本人は手先が器用で勤勉な国民とされますが、 それでもクラシック音楽という理屈だけでは本当の意味で理解することのできない奥深い芸術を自ら血肉化するには 時間が足りなかったのかもしれません。そんなクラシック音楽の大後進国の我が国において、 クラシック音楽、ピアノ演奏のパイオニアとして先陣を切り、短い生涯を駆け抜けた久野久に対して、僕は最大の敬意を払いたいですし、 現在、数多くの日本人ピアニストが世界を股にかけ大活躍しているその礎には、 明治維新時代の彼女たちのこうした功績があることを忘れてはならないと思います。 僕はピアノマニアを自称していながら、恥ずかしいことに久野久、幸田延ともに初耳でしたが、 僕たちがこうして日本という音楽後進国でピアノを楽しめているその背景には、 高々百数十年前の黎明期に活躍した彼女たちの業績があったのだと感慨に耽ってしまいました。 おそらく中村紘子さんがこの「ピアニストという蛮族がいる」という作品の中で最も伝えたかったのは、 この点だったのではないかと思えてきます。 もっともこれは「文芸春秋」への連載ということで、 クラシック音楽を知らない一般的な日本人も読者として対象にしている点を意識してのことではあるのだろうとは思います。

最後に、日常生活の中で楽しいことが増えた豊かな現代社会で、それらの楽しみを犠牲にしてあえてピアノに膨大な時間を費やすのは、 人生の「コスト」という考え方をした場合、極めて高くつくという話がありますが、 それでもピアノに向かい続ける種族(=「蛮族」)が絶滅の危機にさらされる日は永遠に来ないと僕は言いきります。 最後の結びに「人生という貴重な限られた時間のなかで、ときに時代錯誤と言えるほど莫大な時間を浪費していると思われようとも、 私たちは今日も一日中、ピアノを弾いてしまうのだ。」という一文がありますが、 これがピアニストの「蛮族」としての一特徴を示しているとするなら、 僕も一般庶民ではなく、明らかに「蛮族」に属するタイプの人間で、 僕のような人間が一定割合でこの世に生を受ける限り、この種族は永遠に不滅のはずです。 それは裏を返せば、それほどまでにピアノという楽器に人を惹きつけて放さない、測り知れない奥深い魅力があるということです。 ピアノがお好きな皆さんはこれを読みながら、自分は「蛮族」なのか「一般人」なのかを考えてみるのも面白いかと思います。

それにしても、中村紘子さんは何と博識で、また文才に長けた方なのだろうか、とこれを読んで驚嘆しました。 僕は中村紘子さんの書物を読んだのはこれが初めてでしたが、世界史的な見識の高さを含め、 豊富な語彙や圧倒的な表現力、文章の芸術性の高さは小説家並みで驚嘆すべきものでした。 古今東西の天才ピアニストたちがいかに変わった種族(=蛮族)であるか、豊富な事例を元に様々な角度から示してくれます。 ピアノのお好きな皆さんに是非ともおすすめの一冊です。

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